先生の、見つめてきたもの │ Vol.15
人間そのものを対象とする医学の道へ
子どもの頃は、外で遊ぶよりも、図鑑を選んだりレゴやゲームをすることが好きでした。ガキ大将のような男子が苦手で、女子を遊ぶことの方が多かったように思います。
医師を志したのは、高校2年の頃。当初は、映画や文化・芸術といった分野に興味がありましたが、その方面に進むべきか悶々としていました。結局は人間そのものを対象とし、人文的な要素も含んだ実践科学である医学を選びました。森鴎外や阿部公房、今だと養老孟子さんなど、医師でありながら文学など芸術に携わる人が多いイメージもあり、医学という学問に興味を惹かれたこともあります。
医師を志したのは、高校2年の頃。当初は、映画や文化・芸術といった分野に興味がありましたが、その方面に進むべきか悶々としていました。結局は人間そのものを対象とし、人文的な要素も含んだ実践科学である医学を選びました。森鴎外や阿部公房、今だと養老孟子さんなど、医師でありながら文学など芸術に携わる人が多いイメージもあり、医学という学問に興味を惹かれたこともあります。
自分を育ててくれた患者さまとの信頼関係
手先は器用な方だったので、マイクロサージャリー(顕微鏡などを使う微細な外科手術)ができる分野に興味がありました。また、眼は人体の中で最も美しい臓器だと思っていたので、その手術に魅力を感じて眼科を選びました。
眼科の道に進み、最初は緑内障グループで房水動態の研究、学位取得後は分子生物学に興味が移り、専門を網膜に変えました。留学から帰国後は研究から一転、網膜硝子体手術にのめり込みました。その頃は週3日は終電で帰る日々。修行と思い、死に物狂いで診療に当たりました。虎の門病院に赴任した頃は、硝子体の手術医としての私はまだ駆け出し。難症例では技術の未熟さに直面しながらも、患者さまとの信頼関係が私を支えてくれました。私を育ててくれたのは患者さまだと痛感しています。
眼科の道に進み、最初は緑内障グループで房水動態の研究、学位取得後は分子生物学に興味が移り、専門を網膜に変えました。留学から帰国後は研究から一転、網膜硝子体手術にのめり込みました。その頃は週3日は終電で帰る日々。修行と思い、死に物狂いで診療に当たりました。虎の門病院に赴任した頃は、硝子体の手術医としての私はまだ駆け出し。難症例では技術の未熟さに直面しながらも、患者さまとの信頼関係が私を支えてくれました。私を育ててくれたのは患者さまだと痛感しています。
井上眼科の一員として、思うこと
2024年の6月、大宮・井上眼科クリニックの院長に就任しました。眼科といえば「井上眼科」と言われるほどのブランド病院。患者さまからの高い評価と強い信頼は、日々の診療からも感じます。各分野に一流のドクターとスタッフが揃い、今の時代がなし得る最善の眼科医療が行える病院だと思います。
グループの一員として、その名に恥じないクリニックを運営することは大きな喜びであり、またその責任の重さに身が引き締まる思いです。大宮近隣とさらに北関東を含めた地域で、高度な眼科医療を提供することは極めて意義深いものです。多焦点眼内レンズを用いた白内障手術、緑内障・網膜硝子体疾患への手術治療などさらに充実させたいと考えています。
我が国は前例のない高齢化社会になりました。健康寿命を伸ばす上で視機能の維持はこれまで以上に重要です。眼疾患は早期発見と適切な治療が大切です。人生百年を謳歌するため共に頑張りましょう。
グループの一員として、その名に恥じないクリニックを運営することは大きな喜びであり、またその責任の重さに身が引き締まる思いです。大宮近隣とさらに北関東を含めた地域で、高度な眼科医療を提供することは極めて意義深いものです。多焦点眼内レンズを用いた白内障手術、緑内障・網膜硝子体疾患への手術治療などさらに充実させたいと考えています。
我が国は前例のない高齢化社会になりました。健康寿命を伸ばす上で視機能の維持はこれまで以上に重要です。眼疾患は早期発見と適切な治療が大切です。人生百年を謳歌するため共に頑張りましょう。